JT x enableX対談。AI時代のマーケティングの現在地

AIエージェントもツールも、来月にはもっと良いものが出てきます。ならば、マーケティングの競争優位はどこに宿るのでしょうか。JTのデジタルマーケティング部でディレクターを務める洞谷氏と、同社のAXを数年にわたり支援してきたenableX代表・釼持によるウェビナーは、この問いから始まりました。結論を先に申し上げれば、両者の答えは「AIそのものではなく、AIに食わせる自社データと、その先にある顧客理解」です。本稿では、会員サービス「CLUB JT」と「喫煙所マップ」の運営から得られた実践知を、マーケティング責任者が明日から使える形に整理します。
AI時代のマーケティングの「あるべき姿」
2026年8月に日本たばこ産業株式会社様との共同ウェビナーにおいて、AI時代のマーケティングに関してひとつの結論に至りました。それは、競争優位はAIそのものではなく、AIに何を学ばせるかにあります。ツールはコモディティ化し、来月にはより優れたものが登場します。にもかかわらず多くの企業が、ツール選定から議論を始めてしまいます。
では、AIを前提としたマーケティング組織は、何をどの順番で整えるべきなのか。本記事では、enableXが大手企業のAX支援を通じて体系化してきた構想をお伝えします。
目指すのは「AI導入」ではなく、学習ループの高速化
AIは目的ではありません。より良いブランド体験とより高いROIを、より速い学習サイクルで実現するためのイネーブラーです。
多くの企業の現在地は共通しています。データは豊富にあるが部門ごとにサイロ化し、分析は特定の個人の力量に依存し、意思決定の大半は手作業で行われている。この状態では、施策の数を増やしても学習は蓄積されません。
目指す状態はその裏返しです。エージェントがデータを継続的に分析し、人が問いを立てる前に示唆を提示する。マーケターは高付加価値の意思決定に集中する。
重要なのは、これが「ツールを入れれば到達する状態」ではないという点です。ツールAを導入するだけで事業が伸びるなら、導入した100社すべてが伸びてしまい、それは競争優位になりません。到達を左右するのは、その下に横たわるデータ構造です。
三層アーキテクチャ——多くの企業は、いきなり最上層に手をつける
enableXが提唱するのは、マーケティングのデータ基盤を三層で捉える考え方です。
AIエージェント層は、ユースケースごとにエージェントを構築する層です。メディアプランニング、クリエイティブ生成、LP自動生成、CRM最適化、レコメンドエンジン、各種の分析エージェント。目に見える成果が出るため、議論が集中しがちな層です。
AI-Ready層は、集めたデータをAIが解釈できる形に整える層です。本稿で最も強調したい部分であり、同時に最も軽視されている層です。
Rawデータ層は、広告配信データ、購買データ、自社チャネルのデータを収集・統合する土台です。
この三層を貫く進め方が「取得 → 蓄積 → AI-Ready化 → エージェント → ビジネスインパクト」という5ステップです。多くの企業がエージェントから着手し、PoCの段階で「必要なデータがない」「粒度が合わない」という壁に突き当たります。ウェビナーで洞谷氏が語った「活用ユースケースが先、取得は最後」という原則は、この5ステップを逆から設計するという意味でもあります。
Rawデータ層の統合も軽い作業ではありません。局所最適が積み重なり、十近い中間層にデータストアが分断されている状態は珍しくありません。これをデータレイク・データウェアハウス・データマートの三層に再編するだけでも、部門間の数字の食い違いが消え、新しいユースケースはマートの追加だけで対応できるようになります。
最大の盲点:「BI用のデータ」は「AI用のデータ」ではない
ここが実務上いちばん見落とされているポイントです。
多くの企業には、すでにBI基盤があります。データマートが整備され、ダッシュボードが動いている。だから「データ基盤はもうある」と考えます。しかしBI用データマートは、人がレポートを読むことを前提に設計されています。特定の目的のために加工・集計され、スコープはレポートの提供までです。
一方、AI向けデータマートに求められるのは、エージェントが自然言語で問い合わせられることです。必要な設計は三つあります。
第一に、適切な量と粒度。データ量が多すぎるとAIは誤作動を起こし、逆に加工しすぎると自然言語で問える価値が失われます。
第二に、セマンティックレイヤー。各データの定義をYAMLなどで明文化し、AIが参照できる状態にします。「ユーザー属性」という語が性別と年齢帯に自動的に解決される、コード値が何を指すかがディメンションとして登録されている、頻出する集計は検証済みクエリとして登録されている。この地道な定義作業が、自然言語分析の精度を決めます。
第三に、マート間のリレーション定義。個人とキャンペーンの関係、IDと購買の関係を明示的に接続しておかなければ、AIは文脈をまたいだ問いに答えられません。
診断してみると「データは蓄積されているが、AIが読めるマートは全体の1〜2割、BIは月次集計のみ」という企業がほとんどです。AI-Ready化とは、この差分を埋める作業を指します。ここを飛ばしてエージェントを作ると、動くけれども使われないものが生まれます。
構造化データだけでは、事実は解釈できない
もうひとつ見落とされがちなのが、非構造化データ。すなわち組織のナレッジです。
具体例で考えます。ある施策が昨年、申込数を10%伸ばしたとします。では今年も同じ施策を打つべきでしょうか。
答えは数字の外にあります。今年の全社方針が「20%成長」であれば、10%は物足りない実績になります。この方針はデータのどこにも書かれていません。申込数は伸びたが継続に結びつかなかったのなら、見るべき指標は申込数ではなく継続率です。この「評価のレンズ」もデータには存在しません。さらに市況や製品の状況が変われば、同じ10%の意味そのものが変わります。この文脈もまた、データの外側にあります。
つまり構造化データが与えるのは「事実」だけです。目標と方針、評価のレンズ、文脈と環境。判断の根拠となるこれら三つは、いずれも非構造化のナレッジとして、社員の頭のなかや整理されていない社内文書に眠っています。
断片的な情報だけを渡されたAIは、条件や制約を取り違えた低精度の提案しか返せません。「施策 × 目標 × 結果 × 理由」をあらかじめ紐づけておく——いわゆるオントロジーの構築——ことで、AIは初めて意味のあるアクションを導けるようになります。
ここで重要なのが、二つの軸を混同しないことです。データの性質(構造化か非構造化か)と、データの所在(自社が持つか他社が持つか)は、まったく独立した軸です。準備の仕方も活用の仕方も軸ごとに異なるため、一緒くたに議論すると全体像が見えなくなります。
推奨する順序は、①自社の構造化データ → ②他社の構造化データ → ③自社の非構造化ナレッジ。まず自社の構造化データをAIが直接読める状態にし、次に外部データで分析の幅を広げ、最後に組織のナレッジを学習させて示唆を生成させる、という流れです。
成熟度は、段階を踏んで上がる
AI-Ready化は一足飛びには進みません。
入口はKPIの自然言語問い合わせです。「先週のCVはいくつか」「媒体別の獲得単価は」に答えられる状態。既存のBI数値をそのまま使えるため着手しやすく、過去の施策資料を読み込ませれば「似た施策は過去にあったか」にも答えられます。
次が施策・セグメント別の効果分析。どのセグメントが、どの媒体を通じて、どれだけ反応したか。顧客をIDで紐づけるマート設計と指標定義の整備が土台になります。
最終段階が構造化 × 非構造化の掛け合わせです。どの施策が効いたかに加え、なぜ効いたのかをセグメント単位で提示し、次のアクションを選択肢として提案する。ただし選ぶのは人です。成立するのは、両者が同じセグメント定義を共有しているときだけ。段階を飛ばすと、たいてい入口の精度不足に引き戻されます。
エージェントは「作る」より「分解する」
エージェント開発の実務は、巨大なプロンプトを一発で書くことではありません。業務を工程に分解し、工程ごとに最適な担い手を配置することです。この設計手法をグラフエンジニアリングと呼んでいます。
AIエージェント、決定的に動くコード、外部ツール、人間の承認ステップ——これらをすべて「ノード」として扱い、依存関係や条件分岐でつなぎます。記事制作であれば、企画(人)、リサーチ(AI)、企画承認(人)、執筆(AI)、画像生成(AI)、レビュー(人)、入稿(スクリプト)、公開判断(人)といった具合です。
利点は三つあります。工程ごとに求められる推論の深さが違うためモデルを使い分けてコストを最適化できること。人が判断すべき箇所を最初からノードとして組み込めること。うまくいかないときにどのノードが問題かを特定できることです。動くものを作ることと、業務に埋め込んで運用し続けることの間には、大きな距離があります。
「AIチーム」だけでは足りない——必要な七つの役割
AI活用が進まない組織には、共通した構造的欠落があります。
先述の5ステップには、それぞれ担い手が必要です。①データの収集・取得と提供元との交渉、②データ基盤の構築と運用、③蓄積データのAI-Ready化、④エージェントのPoCと要件定義・ユースケース設計、⑤ユースケースをビジネス成果に翻訳し事業目標を持つ役割。加えて、⑥各層のツール導入・パイプライン開発・API設計を担う基盤開発チーム、⑦データ利用ルールとリスク管理、社内統制、プライバシーを担うAIガバナンスチームです。
多くの企業は④にだけ人を置きます。しかしPoCが本番運用に至らない最大の理由は、技術ではなく⑤の不在です。改善KPIを設計し、業務にエージェントを組み込み、事業成果に説明責任を負う人がいなければ、優れたPoCも「面白い実験」で終わります。
データ主権を手放さない——契約ガバナンスという論点
外部ソリューションの活用そのものを否定するつもりはありません。費用対効果が見合うなら使うべきです。ただし、費用対効果だけで判断してはいけないというのが当社の立場です。
AIモデルやCRMツールは相互接続可能と謳われていても、実際の連携が汎用的なツールに限られていることは少なくありません。契約後、データ仕様の変更を通じてロックインが生じることもあります。そこで、契約時に守るべき三つの原則を提案しています。
第一に、自社データのすべてを外部ツール提供者に持たせる契約は結ばない。 データの所在は交渉の余地がない一線です。
第二に、AI-Readyなデータ環境と、それを生み出すノウハウは自社に残す。 変換作業そのものを代理店に依存せず、データがどう処理されているかの知識を社内に保持する。ここを外に出すと、次の意思決定のたびに外部を経由することになります。
第三に、エージェント層の利用・接続に制約を作らない。 生成したデータを他のツールやプラットフォームに接続することを、契約でもデータ仕様でも制限されない状態を確保します。
ひと言でいえば、データ層の主権を保持すること。これは技術の問題ではなく、契約の問題です。
投資配分:MMMの限界と、その先の指標
予算配分の判断はMMM(マーケティング・ミックス・モデリング)に依存しがちですが、MMMには四つの構造的課題があります。更新サイクルが遅いこと。集計データに基づくためチャネル単位の粒度に届かないこと。相関は見えても因果の証明力が弱いこと。値引きの効果を過大評価し、投資を誤配分しやすいことです。
そこで、MMMを補完する評価軸をダッシュボードで常時モニタリングすることを推奨しています。認知段階では純粋想起と助成想起。トライアル段階ではトライアル後の初期継続率——獲得効率が売上とLTVに変換されているかを測る、配分変更の成否を左右する最重要指標です。継続段階では購入頻度、解約率、リピート率。配分効率の指標としては許容CACと限界CPA。そして目的変数は、売上ではなくLTVの総和に置きます。売上基準では値引きの効果が過大評価されるためです。
重要なのは、認知◯%・トライアル◯%といった配分比率を固定しないことです。ファネル全体を見渡し、いまボトルネックがどこにあるかを見て、そこに寄せる。実データから許容CACを継続的に再計算し、柔軟に再配分する運用が要になります。
ただし、継続への投資効率が良く見えるからといってファネル上部を早期に絞りすぎると、目先の購入は取れても新規流入が細り、中長期のブランド成長が弱まります。短期の効率と長期の成長は、別の指標で見る必要があります。
では、明日から何をするか
構想は大きくても、着手は小さくて構いません。むしろ小さく始めて成果を見せるほうが、社内の理解は早く進みます。ウェビナーで洞谷氏が語った「デジタル投資は小額から始められる」という指摘は、AI領域にもそのまま当てはまります。
自社の現在地を測る、五つの問いを置きます。
- 自社のデータマートのうち、AIが自然言語で読めるものは何割ですか。 BI基盤の有無ではなく、AI-Ready化の進捗を測ってください。
- 指標の定義は、誰が読んでも同じ意味になる形で明文化されていますか。
- 判断の根拠となるナレッジは、人の頭のなかにありませんか。 目標、評価軸、文脈が暗黙知のままなら、AIは事実しか扱えません。
- ビジネス成果に責任を持つ人が、AI施策に紐づいていますか。
- 契約上、自社データとその処理ノウハウは自社に残りますか。 ロックインは導入時ではなく、次の意思決定のときに顕在化します。
AI時代の競争優位は、どのツールを選ぶかではなく、どれだけ深く顧客を理解し、その理解を提供価値の差に変えられるかで決まります。それを支えるのは、外部からは買えない自社データと、それをAIが読める形に整える地道な設計作業です。
enableXは、この三層アーキテクチャの構築を構想策定から実装・運用まで一貫してご支援しています。